家に智絵里軍団

シンデレラガールズと雑談のパッチワーク(主にプロレス・自転車談義)

薔薇の館は地獄だ!


  1.

彼女は一人ではなかった。

 

定員オーバーだわ、と小笠原祥子は思った。

 

いまこの部屋には六人の人間がいる。
伝統的にこの部屋は九人集合が基本で、それ以上集まることもたびたびある。
物理的には充分すぎるほど余裕があるはずだ。

それなのに、まるで満員電車の中にいるかのようなこのプレッシャー (実のところ祥子はそれを経験したことが無いのだが)はなにごとか?

それを説明するには、密閉空間の定員数を熱量の問題としてとらえれば良い。

部屋の容積と、その中に閉じ込められた熱量の合計値。
そのふたつの兼ね合いで定員数が決定される、と考えるのだ。

狭い部屋なら熱許容量も定員数も少なくなり、広い部屋なら多くなる。
そして、室内の熱量が許容量を超えると、ヒトは心理的(または生理的)な不快・圧迫を感じる。

そう考えるとつじつまが合う。

部屋が混んでいようが空いていようが、人間の数は関係ない。
熱を発生させる物体があれば、 たとえそれが人間ではなくとも、実質的な人数として部屋に居座る。
熱量こそが空間の支配者なのだ。

簡単に云えば、人間の数が同じなら暑い部屋のほうが涼しい部屋より窮屈に感じる、 ということだ。

いま、六人しかいないのに猛烈なすし詰め感を味わっているのはきっとそのせいだ。
この部屋にはいま、人間に換算して五十人分にはなりそうな 猛烈な熱量がたまっているのだから。

 

そんな自説を、直射日光が窓からさんさんと注ぐ真夏の薔薇の館の二階の部屋で、 ストーブ三台の放つ熱線にさらされながら、小笠原祥子は展開していた。

 


  2.

彼女は一人ではなかった。

 

そもそも、ことの起こりは誰だっけ?と福沢祐巳は考えた。

 

詳しく思い出せないが、たぶん、というかどうせ、由乃に決まっているんだけど。

それは、夏休みもなかばを過ぎたある登校日のこと。
薔薇の館での雑談中に、ふと誰かが、
「夏といえば?」
と、連想ゲームのような問いを発した。

プール、海、きもだめし、お祭り、花火、といった定番ワードに混じって、
「我慢大会!」
由乃が叫んだ。

そのひとことが、最後の一本の藁となってろばの背骨を折った。
(ことわざが用法不適切なのは、 祐巳の灰色の脳細胞が暑さで蒸し蟹みたいに真っ赤になっていたからに違いない)

そのあとは、あれよあれよと離岸流に乗ったように話が沖に流され、気付けば、
「明日、厚着してここに集合!」
ということになっていた。

 

そんな前日の記憶を、水着と体操服とジャージとカーディガンとセーターとコートを重ね着した姿で、 福沢祐巳は思い出していた。

 


  3.

彼女は一人ではなかった。

 

六人と太陽で七人だ、と二条乃梨子は心の中でひとりごちた。

 

次の日、つまり今日、六人は厚着の準備をして再集合した。

二階の部屋に集合した六人は、いったん制服を脱いで、それから厚着に着替えた。
さすがに人道上、厚着のままでの登校は出来なかった。

汗でぬれてもいいように、一番下は水着(学校指定)、二番目には体操服を着た。
あとの重ね着パーツはそれぞればらばらだった。
一番上には、ひとりを除いてみんな学校指定のコートを着た。
志摩子だけは綿入りのはんてんを持ってきていて、それが一同にちょっとうけた。

参加者側の準備はそれで完了。

メインアイテムのストーブは、すでに据え付けられていた。
どこから持ってきたのか知らないが、骨董っぽいガスストーブが一台。
それに、まあまあ現代的に見える電気ストーブが二台。
加えて、カーテンを開け放し、水を入れたケトルをコンロにセット。

といった具合に設備側の準備も整い、由乃が、
「ルールは唯一つ。最後まで耐え残った者が勝ち!」
と、照り返しを受けたまぶしすぎる笑顔で宣言した。
「もう駄目だ、と思ったらプールへダッシュ!」

そして、すべての熱源(人間と太陽を除く)のスイッチがひねられたり押されたりして、 山百合会初(推定)の真夏の我慢大会が開幕した。

 

そんな十数分前の光景が、湯気立つ灼熱のティーカップをおそるおそる口に運ぶ 二条乃梨子の脳裡にフラッシュバックしていた。

 


  4.

彼女は一人ではなかった。

 

でも、勝者はいつも孤独だ、と支倉令は考えていた。

 

さて、開幕したはいいが、することが無かった。
もちろん、暑さに耐えるという大会のメインテーマ以外にである。

そのメインテーマに関する限り、実は開始数分で既に各人手一杯の感があったのだが。
だからこそ、なおさら間をもたせるものが必要だった。
暑さに耐えてじっと座っているだけなんて、それはイヴェントではなくただの緩めの拷問である。

そんな状況に、コンロに掛けたケトルの水より早く業を煮やした由乃が、
「ただの拷問には興味ありません」
と、高らかに云い放った。

これが拷問であることはとりあえず決定事項ですか?
あなたはそんな拷問パーティに私たちを巻き込んだのね?

と、みんなが内心つっこんだあと、おもむろにあるものがテーブル上に持ち出された。

そのあるものとは、薔薇の館常備のプレイングカード。
一般的に、トランプと呼ばれるものである。

これを使えば多少は気も紛れるだろう。
それに、負けた者に罰ゲームと称して負荷をかけることにより場の活性化を図ることも出来る。
それはすなわち、メインテーマに直結した駆け引きが発生するということだ。

そんな算段のすえ、この夏いちばん暑い(推定)トランプ大会が始まった。

 

といった経緯を、 ハートのエースを場に出して「上がり」と宣言しながら、支倉令は思い出していた。

 

  4‐2.

トランプゲームはそれなりの効果を発揮した。
劇的とは云えないまでも、その呼び名のとおり「切り札」にはなったらしい。

初戦にえらばれたのは、無難にファンタン、つまり七並べ。
カードが配られ、四枚の七が提出され、カードがつぎつぎと並べられ……

そして、乃梨子が負けた。

敗者が決定したところで、罰ゲームを何にするか話し合われた。
結果、この部屋で毎日のようにおこなわれていたある習慣が採用された。

それは、お茶である。

提案したのは祐巳だった。
熱いお茶を飲むというおなじみの行為が、我慢大会では強力な試練になる。
そのことに気付かされたとき、ここに天才がいる、とみんな思った。
(もちろんそれは暑さが見せた脳内蜃気楼でしかなかった)

罰ゲームが決まったところで、祥子があることを指摘した。
曰く、
確かに暑い部屋で熱いお茶を飲むのはたいへんだけど、熱いお茶を暑い部屋で淹れる人もそれなりにたいへんなのではなくて?

それも一理ある、ということで再度話し合われた。
結果、ブービーが淹れたお茶を最下位が飲む、ということで最終決定。

ちょうどそのとき、タイミング良くケトルが鳴いた。

発案者にしてブービー祐巳がお茶を淹れ、乃梨子の前に置いた。
乃梨子は、噴火口を覗き込むような目でカップを睨んでいたが、 やがて意を決して口へと運んだ。

なみなみと注がれた琥珀色の煮え湯を飲み干すと、乃梨子はこたつから出た猫のようにぶるぶるっとからだを震わせた。
この即席熱帯ルームでいったいなにが彼女をそうさせたのか。
それは永遠の謎である。

そんなこんなで。
暑さを忘れて、とはお世辞にも云えないが、みんな少しのあいだ時間を忘れてトランプに没頭した。

七並べの後は、ババ抜き、ポーカー、ぶたのしっぽ、大富豪、ブラックジャックページワン、 ダウト、コントラクトブリッジ、51、ブラックレディ、ナポレオン……
などなど、思いつく限りのゲームがプレイされた。

ただし神経衰弱だけは、危険すぎると全会一致で回避した。

それ以外、特筆すべきことは特に無い。
大富豪で祥子が負けたことが、面白いといえば面白かった。

 

そして、最初の脱落者が出た。

 

 

  5.

彼女は一人ではなかった。

 

やばい、キレそう、という破滅の自覚が、島津由乃の心に芽生えた。

 

トランプ大会は進み、みんながほぼ満遍なくお茶を飲んでいた。

ただ、胃に溜まるお茶の量は満遍なくても、 心に溜まるストレスの量には満遍あったらしく……
(日本語が少々変なのは暑さのせいで魂まで狐色になりそうだったからに違いない)

いつの間にやら、なにか危険なものが部屋に充満していた。

その正体は、由乃の不機嫌オーラ。
気付いたときにはもう遅く、すでに飽和状態だった。

ただひとりそれを察知していた令は、ときどき由乃のほうに気遣わしげな視線を送っていた。
それがまた当人には気に入らなかったらしい。
熱で膨張するかのように、由乃はどんどんふくれっつらになっていった。

そしてカタストロフは、キャンセレーションブラックレディの終了直後に起こった。

 

  5‐2.

由乃がビリを引いた。
それが瀕死の自制心に止めを打った。

由乃はノーモーションでいきなり立ち上がった。
弾みで椅子が後ろに倒れたのもかまわず、驚いて目を丸くする令の手首をつかんだ。
そして、何を考えたのか、カードを蹴散らしテーブルに足をかけてそのうえによじ登り始めた。
手首をつかまれた令も道づれになり、いまやいっしょにテーブルのうえ。
とまどう令をくるりとターンさせ、後ろを向かせる。
令の左わきの下にもぐり込むように頭を入れ、両腕を令の腰に回してお腹の前で手を組み合わせた。

そこで一瞬の間をとったあと、ふっ、という由乃の力のこもった吐息が聞こえ……

令のからだが浮いた。

そしてそのまま、ゆっくりと、ふたりのからだは後ろにかたむき始めた。

由乃が令のからだを抱え上げ、テーブルの外の何も無い空間に後ろ向きに身を投げ出したのだ。
そうとわかったときには、すでにもう誰も止めることが出来ない状態だった。
あとは重力の仕事である。

しかし、由乃は重力任せにするような無責任な女ではなかった。

己と令のからだが完全に支えを失くし制御を失うと、自分だけすばやく体の向きを入れ替えた。
空中で令と向き合う格好になり、右手で令ののどをつかむ。
そんな体勢で全体重を一点に集中させて、ふたりは堕ちていった。

 

  5‐3.

いやな音がした。
硬い木製の床と、硬い人体の一部が衝突する音が。

令のからだは後頭部を支点にして一瞬だけさかさまに突き立ってから、床に沈んだ。
その横で由乃は、しゃがみこむような姿勢で着地を決めていた。

以上、危険な自覚が心に芽生え、行動となって開花し終えるまで。
その間わずかに三秒の出来事。

ほかの四人は知らなかった。
由乃がいまのそれ(人間を抱え上げて後ろに落とす一連の動作)を『断崖式・私が由乃』と名付けてフェイバリットホールドとしていることを。

 

  5‐4.

由乃が立ち上がった。

白い湯気のようなものを機関車みたいに、ふしゅー、と吐き出し、床の上の大の字を睨む。
口に牙が生え、目が猫科の猛獣のように見えたのは、陽炎のせいだろうか。

やがて、唐突過ぎるヴァイオレンス展開にあっけにとられていた一同の耳に、床の上から、
「……い、いまの、は、いた、かった、よ、よし、の」
という、とぎれとぎれの弱弱しい声が聞こえてきた。

由乃はそれでもなお、黙ったまま令を見下ろしている。

どうやら最悪の事態は避けられたらしいと分かった。
(ほかの四人が心配した「最悪の事態」とは、由乃が令に止めを刺そうとすること、である)

しかし、事件はまだ終わらなかった。

 


  6.

彼女は一人ではなかった。

 

こんなところに来なければよかった、と築山三奈子は後悔していた。

 

薔薇の館の二階の部屋の前。
開け放たれた扉から出てきたものを見て、三奈子は山口真美とともに震撼した。

ちなみに、三奈子たち視点のことの経緯はこうだ。
山百合会が我慢大会をするという情報を真美が仕入れてきた。
それは面白そうだ、と真美をひっぱって張り込みに来た。
最初、部屋の中の様子はよく分からなかった。
そのうち「パス」「コール」「ダウト」といった声が聞こえてきて、 トランプが始まったらしいと分かった。
とつぜん、椅子を倒したような音がした。
数秒後、ごん、といういやな音がした。
そして、扉が開いた。

なにごとか?とふたりが身構えていると。
開いた扉の向こうから、獣のオーラをまとった(としか形容できない)由乃が姿を現わした。
右手で何かをつかんで引きずっている。
それがぐったりした令のからだだと気付いて、三奈子と真美は思わずその場にへたりこんだ。

三つ編み少女が獣と化して、従姉妹で姉妹の美少年を引きずりまわす。
それはもう、申し分のない戦慄の登場シーンだった。

衝撃の急展開に三奈子たちはひたすら狼狽するしかなかった。

その眼前で由乃は、令のからだを完全に部屋の外に引きずり出した。
そして、その場に投げ捨てるように転がして報道陣に非道っぷりを見せ付けると、未練などまったく見せずにきびすを返した。

 

そして、最後の事件が起こった。

 

  6‐2.

きびすを返して一歩踏み出したはいいが、由乃はそれ以上動けなかった。

右足を踏み出したのに、左足がついてこない。
歩行を阻害するものがいる。
そのことにたっぷり数秒かかって気付いた由乃が、足元を見た。

令の手が、左の足首をつかんでいた。
とらばさみのようにしっかりと。

ひっ、と小さく叫んで由乃は無理やり手を振りほどこうと足を動かした。
しかし逆にバランスを崩してその場に倒れこんでしまった。

令はそんな由乃のからだの上を、覆いかぶさるように這いあがっていく。
たぶんそのとき令は、忘我の状態であったのだろう。

そのさまは、令の美貌とあいまってなかなか恐ろしい光景だった。
その証拠に由乃の顔からはもはや獣の呪縛は消え失せ、いまやパニックの兆候すらうかがえた。
さっきまでがホラー映画の殺人鬼なら、いまはスプラッター映画の犠牲者のようだ。
まったく美事なコペルニクス・ターンであった。

それでも由乃は必死に部屋の中に這い戻ろうとする。
だが、令にまとわりつかれてからだが前に進まない。

そのとき、室内から、
「ワン」
という声が聞こえた。

暑さに耐えかねてトランス状態になった誰かが犬の霊に憑依でもされたのかと思った。
が、続いて聞こえてきた、
「ツー、……スリー、……フォー、……ファイブ、……」
という一連の声によって真意が分かった。
場外カウントが進んでいるのだ。

その声が聞こえているのかいないのか。
由乃は部屋の中に向かって目いっぱい手を伸ばした。
が、指先は扉の敷居にすらとどかなかった。

そんなありさまを、室内の四人は、
「イレブン、……トゥエルブ、……サーティーン、……」
着実に数を増やしながら、無慈悲に見下ろすだけ。

そして、ついに、
「エイティーン、……ナインティーン、……トゥウェンティー」

かんかんかん、と、祐巳がティーカップをティースプーンでかるく打ち鳴らした。

場外カウント20。
由乃、帰還せず。

もつれ合うふたりの前で、ばたん、と扉が閉じられた。

 

彼女たちは一人ではなかった。

 

島津由乃支倉令、ふたり仲良くリタイア。

 

 

  7.

彼女は一人ではなかった。

 

1+1+(1+1)=3、世界は奇なり、と山口真美は思った。

 

閉ざされた扉の前。
真美と三奈子は、重なり合ったまま精根尽き果てたように動かない令と由乃を眺めた。

「どうしますか?この黄薔薇の蒸し焼き」

放っておくわけにもいかないので、とりあえずコートを脱がせることにした。

しかし、ここでほんのちょっとしたハプニングが発生。
コートどころか最後の一枚(学校指定水着)を残してすべてを脱がしてしまったのだ。
脱がす、という行為の魅惑を甘く見ていた三奈子と真美であった。
熱気とそれ以外の理由があいまって少し上気した顔を、ふたりは見合わせた。

「どうする?この汗まみれの着せ替え人形」

水着姿で放っておくといろんな意味でまずそうなので、水のあるところに連れて行くことにした。

令と由乃をどうにか立ち上がらせる。
ふたりとも脱力しきっていて、支えているのか抱えているのか分からなかった。
しかたないので、そのまま、よたよたふらふらとプールを目指す。

それがけっこうな重労働であることに途中で気付いたものの、なんとかプールサイドに到着。
ふたりを水の中に文字通り放り込んだ。

 

  7‐2.

幸いなことに、令と由乃は自力で浮かんできた。
そうして生存を確認したうえで、三奈子と真美は薔薇の館に戻ることにした。

薔薇の館の二階に戻ってみると、扉が開いて、祥子が出てきたところだった。

曰く、
部屋は暑いし、令と由乃がいなくなったことだし、私もそろそろおいとましようと思って。
だそうである。

これはふたりにとって完全に期待はずれだった。
由乃と令があれだけのインパクトを残してリタイアしたあとだ。
次もなにかひと悶着あるに違いない、と思っていたのに。

ところが、ふたを開けてみればなにもなし。
ゼロ悶着である。

予想を裏切ったという意味では、なにもなかったのが逆に意外な展開だった。
そんな云い方もできるかもしれない。
ただ、それで納得するには、三奈子と真美は若すぎた。

令と由乃がプールにいることを確認し、祥子は陽炎立つ中庭を歩き去った。
揺れる背中を、ふたりはむなしく見送った。

 

彼女は一人だった。

 

小笠原祥子、とてつもなくつまらなくリタイア。

 


  8.

彼女は一人ではなかった。
 

「われわれは六人で部屋に入り、三人が外に出て、三人が残っているのではなかったか」
「王よ、そのとおりです」
「しかし、わたしには四人の者が部屋にいるのが感じられる。それに、第四の者は神の子のようだ」

そんなやりとりが、藤堂志摩子の頭の中で渦巻いた。

 

由乃の熱暴走と令のハードバンプから十数分。
祥子の非劇的(アンチ劇的)な退場から数分。

部屋の外のふたりと同じく、室内の三人のあいだにも 少々しらけたようなムードがただよっていた。
しかし、あえて誰もなにも云わず、勝負はいまだ続行されていた。

ふと、志摩子は妙な気配を感じた。
部屋の中にいるはずのない、「四人目」の気配、とでもいうべきものを。

時を同じくして、乃梨子が妙なことをしているのに気付いた。
コートのポケットからなにか小物を取り出し、つぎつぎとテーブルの上に並べているのだ。
志摩子にはそれが小さな仏像のように見えた。

さらに、それと重なるように祐巳が、
「お姉さま!」
と叫んで立ち上がった。

その視線は、なにもない空中に注がれていた。
そのままふらふらと、何かを捕まえようとするように手をさしのべて、部屋の中を歩き回る。
そんな調子でテーブルの周りを三周したあと、扉を開けて外へと出て行ってしまった。

祐巳はいったい何を見たのかしら、と志摩子は考えた。
さらには、乃梨子祐巳に何を見せたのかしら、とも。

 

  8‐2.

祐巳の見たもの。
それは彼女の叫んだとおりのもの、つまりお姉さまだった。

とはいえ、祐巳が見たものがただの祥子であったなら。
挙動不審のすえに退場などという事態にはならなかっただろう。

当の祐巳乃梨子の行動に気付いていなかった。
代わりに、ふと奇妙な気配を感じて目を上げると、部屋の中にお姉さまがいた。

最初は、さっき出て行ったお姉さまが戻ってきたのかと思った。
しかし、ことはそんなに単純ではないとすぐに気付いた。

なぜなら、お姉さまはたくさんいたからだ。
文字通り、十数人の祥子の姿が、祐巳には確かに見えた。

それらのお姉さまは、みんな違う格好をしていた。
出て行ったときのままのコート姿のお姉さまを筆頭に、制服のお姉さま、カーディガンのお姉さま、ジャージのお姉さま、体操服のお姉さま、そして水着のお姉さま。
それ以外にも、なぜかワイシャツ一丁のお姉さまや、バスタオル一丁のお姉さままで。

その他、祐巳が見たことのあるお姉さまも、見たこともないあられもない(と云うしかない)お姉さまも。
そのすべてが、誘うように両手を広げて微笑んでいた。

そのときにはすでに正常な判断力は失われており、祐巳はわれ知らず、
「お姉さま!」
と叫んで、祥子の群れの中に飛び込んでいた。

祐巳が近寄ると、お姉さまたちはふわりふわりと身をひるがえして離れていった。
祐巳が止まると、お姉さまたちも一定の距離をおいて立ち止まり、こちらを見つめてきた。

まるではんみょうと鬼ごっこでもしているような具合だった。

祐巳は、室内に満ち満ちるお姉さまたちを夢中で追いかけた。
砂漠で蜃気楼を追いかける旅人のように。

みずから扉を開けて外に飛び出したことにもまったく気付かなかった。

 

彼女は一人ではなかった(主観では)。

 

福沢祐巳、祥子の幻とともにリタイア。

 

 

  9.

彼女たちは一人ではなかった。

 

そしてふたりだけになった、と、志摩子乃梨子は思った。

 

「暑いね、志摩子さん」
祐巳の排除に成功した乃梨子は、さっそく志摩子に語りかけた。

「ええ、暑いわね、本当に」
答えて志摩子は汗をぬぐい、机の上の小物を片付ける乃梨子を見ながら、さらに続けた。

「ここはゲヘナ?それともソドムとゴモラネブカドネザル王の炉の中かしら? ラザロをよこして指先の水で舌を冷やして欲しいところね」

乃梨子には志摩子の云っていることがまったく理解できなかった。
その代わり、暑さのせいで志摩子さん錯乱気味だ、とだけ思った。

どちらにしろ、そろそろ切り上げどきかもしれない。
それが乃梨子の出した結論であった。

小物の片付けを終えた乃梨子は、静かに立ち上がった。
そして云った。
志摩子さん、先に行ってるね」

「ええ、ありがとう。私もすぐに行くわ」
そう答えて微笑む志摩子を残し、乃梨子は扉を開けた。

 

彼女は一人だった。

 

二条乃梨子志摩子のために、孤独をしのんでリタイア。

 

 

  10.

彼女たちは一人ではなかった。

 

三奈子と真美の眼前で、山百合会の六人衆がプールで遊んでいた。

 

祥子の背中を見送った数分後。

扉が開いて、祐巳が出てきた。
由乃たちとは別の意味で明らかに尋常ではない様子だった。
しかしまあ、とりあえず自立歩行はしていたので、これも見送るだけにした。

そのさらに数分後。

扉が開いて、今度は乃梨子が出てきた。
特に異常を感じさせるものは見当たらなかった。

が、残り数段というところで、足を滑らせ、階段をずり落ちるというらしくないミスをした。
そのさい、ポケットから何か小さな物がこぼれ、まき散らされた。
駆け寄ってくる三奈子たちに気付いた乃梨子は、とっさに 散乱した小物を幾何学模様に並べ始めた。
その瞬間、真美たちの耳に、ばさばさっ、という音が聞こえ、視界がふさがれた。
何か紙のようなものがたくさん、つむじ風に吹かれたようにあたり一面に舞っていた。

それはリリアンかわら版だとふたりは気付いた。

本能的にそれを追いかけ、かき集めているうちに、乃梨子は並べた小物ともども消えていた。
ふたりが我に返ったときには、いくら探してもかわら版など一枚も見当たらなかった。

それから何分経ったのか。

階段のいちばん上に、最後のひとり、志摩子が立っていた。

いつの間に、と思ったのもつかの間、志摩子は立ちくらみをおこしたようにぐらりとバランスを崩した。
三奈子と真美は生涯最速のダッシュを見せた。
そうでなかったら、志摩子リリアン初(推定)の階段落ちをした薔薇さまになっていたところだった。

志摩子を抱えてプールに向かう途中、中庭に乃梨子が行き倒れていた。
「タリタ・クミ」
と呼びかけてみても反応がないので、仕方なくこれも担いでいくことにした。

 

  10‐2.

いわれのない重労働を終えて、三奈子と真美はプールサイドにのびていた。

汗だくだけど水着なんて着込んでいないから水の中に逃げ込むことも出来ず。
もはや日陰を求めて動く気力と体力もなく。
炎天下のミミズのように、燃える蒼穹を見上げてもだえるしかなかった。

 

「わたしたちは悪いことは何もしていないのに……
わたしたちは何も悪いことはしていないのに……」

 

そんなふたりのつぶやきは、水音にはばまれて誰の耳にも届かなかった。

 


<おわり>

(初うp→06/9/20)

………………

文「…『彼女は一人ではなかった』と『わたしたちは…』が『冷たい方程式』ですね」
P「冒頭の一文にパロディを持ってくると、書きやすいんです。それ以外にも、我ながらなかなかパロディと小ネタ満載の一編です。でした。たぶん、自分でも覚えてないネタもあるはず」

菜「プロレスネタもありますねー」
楓「まさかの田上さん♪」
菜「ティーカップをゴング代わりにするネタは、確か日記でも使ってましたよね」
P「昔の日記やSSから今のブログに再利用しているネタや発想は、実はけっこうあります」

橘「妙にひねった表現が多くて、苛立たしいです」
杏「うわ幼女手厳しい」
比『ありすちゃんは編集者っスか!』
P「けっこうがんばってオリジナルな言い回しをひねり出したのに……」
橘「ど、努力は認めます。ちょっと言いすぎました」

ク「聖書に関する記述もちらほら見受けられますね」
P「舞台がキリスト教系の女子高ですから」

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