今は秋。瞳子はそれを思い出す。
足を踏み出すたびに、靴の下でかさかさと軽い音を立てて崩れる落ち葉たち。
細い木枝の隙間から見えるのは、高い青空と白いうろこ雲。
ときおり傍を吹き過ぎてゆく風は、絶妙なまでに涼しく、心地良い。
そんな、どこを切っても爽やかな季節の中を、瞳子はひとり浮かない顔をして歩いていた。
今現在、特にこれと言って具体的な悩みがあるわけではないのだけれど。
でも、なんだか、妙に憂鬱な気分。
やり場のない倦怠が身体の内に澱んでいるような、そんな感覚。
それはきっと、“秋”のせい。
秋の爽やかさは、往々にして虚しさや物悲しさに転じるもの。
そしてそれが、人の心を打ち沈ませる。
そういうことはよくあるのだと瞳子にも分かっていたし。
それにもしかしたらこれは、演劇人としての感受性の鋭さの証明なのかもしれない、 とも思ったから。
この気分にむしろ積極的に浸るようにして、瞳子は枯れ木立のなかを歩き続けていた。
やがて前方に、木々の列が途切れた何もない空間が現われた。
木立が円形にぽっかりと切り取られて、小さな空き地になっているらしい。
当然、そこだけは頭上を覆う枝もなく、周りよりわずかに濃い陽が射している。
瞳子には、それがまるで、淡いスポットライトに照らされた簡素な舞台のように見えた。
そして、その“舞台”を眺めるうちに、ふと、ある考えが浮かんできた。
これはきっと、“秋”がわたしに投げかけた挑戦状だ。
いまこのとき、この場所にふさわしい演技をしてみせよ、と。
木々が、落ち葉が、そよ風が、陽光が、秋を成す全てのものが、舞台を整え待ち構えているのだ。
瞳子は、そんな己のひらめきに迷うことなく身を任せ、ゆっくりと“舞台”に足を踏み入れた。
頭の中で、かちり、と音がして、一瞬にしてモードが“女優”に切り替わる。
そして“舞台”の真ん中、目には見えないバミの手前で立ち止まり、軽く、且つしっかり眼を瞑った。
精神を集中する。
憂いに満ちた雰囲気を、風のように身に纏うイメージ。
さらに、この憂愁なる心境を表現するにふさわしい、一劇必殺のひとことを思案する。
やがて、わずかにひとつ頷いて、静かに眼を開け、呟いた。
「生きるべきか死ぬべきか、それが問題ですわ」
瞳子の紡いだその言葉が、冬の吐息のようにぼんやりと、その場に束の間留まり、やがて余韻も残さず溶け去ろうとした、刹那。
瞳子は、ふわり、と何者かに後ろから抱きしめられていた。
「ゆ」
反射的に、祐巳さま、と叫びそうになって、瞳子は危うくその声を飲み込んだ。
背後から音もなく近づいて抱きつくなんて、 そんなお戯れの過ぎる知り合いは祐巳さまくらいしか心当たりがない。
だけど、いま背中に密着しているこの感触は、よく知る祐巳さまのものではない、断じて違う。
では、いったい、だれ。
可能性があるのは。
もしかすると。
背後に向けた問いかけに答えたのは、予想通り、乃梨子さんの声。
しかもそれは、なんだかとても切なくて。
まるでうなじを這い上がるようなその声色に、瞳子は少し困惑した。
「あの、乃梨子さん」
「いいよ、何も云わなくて」
再び背中に問いかけると、返ってきたのはそんな言葉。
実のところ、なんだかよく分からない返答だったけど。
だけどそれを聞いて瞳子は、乃梨子さんの行動の意味がなんとなく理解できた気がした。
つまり、いま乃梨子さんは、わたしを慰めようとしてくれている。
乃梨子さんは多分、木々の間に分け入っていく瞳子の姿を見、その尋常ならざる気配に居ても立ってもいられず、後を付けてきたのだろう。
そして、殺風景な空き地に佇み、ますます思いつめた雰囲気で、「生きるべきか、死ぬべきか」 などと深刻な言葉を口走る様を目撃するに至って、恐らくこう思ったのだ。
……これは重症だ、世を儚むほどに落ち込んでいる、とても放っては置けない、いまここにいる自分が何とか力にならなければ、と。
そして思わず飛び出した結果が、さきほどの奇襲のような抱擁というわけだ。
つまり、有り体に云うなら、先ほどの憂いの演技が、乃梨子さんには“効きすぎて”しまったのだ。
そう思い当たって瞳子は、嬉しいような、可笑しいような、それでいて申し訳ないような、ちょっと複雑な心境を覚えた。
乃梨子さん、ごめんなさい。
心の中で、そう囁く。
でも、真相をばらすと乃梨子さんの心遣いが無になってしまうので(それに、強がっているだけ、と思われて信じてもらえないかもしれないので)。
現実には、
「ありがとう」
と、小さくひとことそう云って、しばらく乃梨子さんを背中にくっつけたまま、その場に佇むことにした。
わたしには、秋の挑戦にも負けぬ、頼もしい友という名の共演者がいる。
そんなことを考えながら。
数日後。
瞳子はまたも、あの日と同じ枯れ木立のなか、裸枝の下を歩いていた。
ただし、この前と違って足取りは軽い。
胸に巣食っていた憂鬱の虫が、今日はいないのだ。
空には雲が多めで、日差しはちょっと翳っていたけど、瞳子の心は明るく澄んでいた。
やがて前方に、例の“舞台”が見えてきた。
乃梨子さんとささやかな寸劇を演じた“舞台”が、ゆっくり近づいてくる。
ふと、あの日の“エピローグ”を思い出して、瞳子は微笑した。
あのあと瞳子は、なかなか背中から離れようとしない乃梨子さんを、半ば引き摺るようにして木立の外まで歩く羽目に陥ったのだ。
そして、ようやく乃梨子さんを引っ剥がして身軽になってみると、何故か心まで軽くなっていて。
結局のところ瞳子の憂鬱は、乃梨子さんの愛すべき勘違いによって晴らされた、ということになる。
我ながら良い終幕ですわ、と瞳子は自賛したものだった。
短い回想を終えて我に返ると、何時の間にかあの日のあの位置、見えないバミの上に立っていた。
あの日と同様、躊躇うことなく目を瞑る。
今日もまた、いまこの日このときこの気分に相応しいひとことを。
いいえ、ここはあえて、あの日と同じ台詞を。
そんなわずかな逡巡を経て、瞳子は目を開いた。
そして、呟く。
「生きるべきか死ぬべきか、それが問題ですわ」
刹那。
ふわり、と暖かなものが背中に触れるのを感じて。
瞳子は、ふぅ、とひとつ、満足気にも聞こえる巧妙なため息を吐いた。
どうやら劇はまだ、終わっていなかったらしい。
それならば、真の終幕の言葉を。
「祐巳さま、あなたもですか」
今は秋。瞳子はそれを思い出す。
そして、それに、感謝した。
<おわり>
(初うp→05/8/10)
………………
『シェイクスピアの──秋だ』(当時のあとがきより)
文「…ほう」
夏「なんつーか、へたくそがカッコつけたらこうなる、っていう感じだな」
菜「さすが夏樹ちゃんミモフタモナイです!」
P「もうだいぶ前の文章ですから。まあ、このころから進歩してるかといわれると……」
夏「そもそもSS書いてねーしな」
菜「そ、それぐらいで!」
文「…これは、この、瞳子さんという方に『あの名台詞』を言わせるためだけに書かれたもの…と推察します。つまり、プロデューサーさん仰るところの『元ネタが無いと書けない』の最たる例と言えるのではないでしょうか」
凛「私はむしろ詩なんじゃないかと思った。出来は別にして」
神「そうだとしたら、いつも『詩は理解できない』って言ってるプロデューサーさんには最高の皮肉だな」
P「当時のあとがき曰く、『ほとんどイメージ映像みたいなもの──ですから』とのことですから、もしかしたらそうなのかもしれません。もちろん、詩が分からない私には分からないのです。あと、分かる分からないといえば、オチですが。分かりますよね」
文「…読者の理解力に、お任せします」
夏「そもそも読者っているのかこれ」
P「……いなきゃいないで恥ずかしくないからそれで良いんですけどねー」